石山寺は関西以外の方でも、よくご存知の寺です。
天平年間、聖武天皇の勅願で、開基された古刹です。
また、紫式部が「源氏物語」を書いた所とも伝えられています。
詳しくは、始めの石山寺の名をクイックして、ホームページをご覧ください。
写真の東大門は、正面左右に仁王像が安置されていることから、別名、仁王門とも呼ばれています。
西教寺は、今から500年前、室町時代に真盛上人が開いた天台宗のお寺です。
山門をくぐると、静寂の中に鉦(かね)の音が聞こえ、琵琶湖を見渡せる境内には、桜を始め、四季折々の自然が楽しめます。
また身代わりの手白猿の伝説や、比叡山焼き討ちの後の復興に力を注いだ、明智光秀一族の墓、伏見城の遺構である客殿、二十五菩薩来迎像など、さまざまな史跡があります。
写真の総門は、天正年間、坂本城主 明智光秀が移築したと伝えられています。
日吉大社は全国3800余りの山王さんの総本宮です。
伝教大師・最澄が延暦寺を開山した時は、日吉の神々を鎮守神となし、益々栄えたが、織田信長の比叡山焼き討ちの際に社殿のほとんどを焼失しました。
現在の建物は、ほとんど、後の豊臣秀吉が再建したものです。
境内は、広さ13万坪の広さを有します。
大鳥居をくぐると、写真の日吉三橋の一つ、大宮橋が架かっています。
日吉大社の詳しくは、ホームぺージを(最初の日吉大社をクィック)ご覧ください。
須磨寺は、前回の平重衡の碑から、真っ直ぐ商店が建ち並ぶ道を進んだ所にあります。
真言宗須磨派の大本山で、須磨のお大師さんと親しまれています。
境内には、平敦盛の首塚や源平ゆかりの史跡が多く、またゆかりの品々の展示、歴史を説明する資料等が展示されています。
詳しくは、寺のホームページをご覧ください。(上の寺名をクィック)
前回の小野小町塚を進み、その北側に玉津岡神社があります。
詳しくは、玉津岡神社のホームページをご覧(神社名をリンク)ください。
岩清水八幡宮は、
859年に行教律師により勧請されました。
「やわたのはちまんさん」と親しまれています。
詳しくは、宮のホームページ(岩清水八幡宮とクィックしてください)でご覧ください
前回で長崎を終わり、今日から古都を訪ねて歩いたものを紹介しますので、見てください。
その1回目は、神應寺(京都府八幡市八幡西高坊24、京阪電車八幡駅下車、北に5分)です。
神應寺は、石清水八幡宮を勧請した「行教律師」により、西暦860年に創建されました。
写真の本堂には本尊薬師如来、日光・月光菩薩、秀吉位冠束帯像、行教律師坐像(重文)が安置されています。
この他、書院は伏見城遺構の移築と伝えられ、狩野山雪の障壁画が描かれ、また奥の院(杉山谷不動尊・すぎやまたにふどうそん)には南無大聖不動明王、脇仏矜羯羅童子・制多迦童子(八幡市指定文化財)、十一面観世音菩薩を安置しています。
ここは縁側より京都、宇治、淀川に向けた眺望、さらに秋は紅葉が美しい。
しかし拝観には、事前に電話(TEL 075-981-2109)に連絡をされた方法が良いです。
香港上海銀行は、明治29年(1896年)に長崎に支店を開設し、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行であったとか。
この建物は、明治37年(1904年)に竣工したもので、長崎市内の石造り洋館としても最大級のものです。
昭和6年(1931年)に閉鎖され、警察署庁舎、歴史民俗資料館として利用されてきました。
その後、建物の外壁の一部を復元して、そのまま現地で保存活用することになり、平成2年には、国の重要文化財に指定され、約4年間の保存修理工事を経て、平成8年10月1日にオープンした。
記念館の1階は、当時の銀行乗務を物語る資料などを展示し、夜間はコンサートや講演会等が開催できる多目的ホールとして、2階は応接室、展示室(居留地の人々)、頓珍漢人形の展示室が、また3階は、「長崎-上海航路」、「貿易港長崎」、「港往来」、「建築・建築家」の4つのテーマで、展示を行っています。
善光寺は、全国民から親しまれてるお寺です。
本尊の一光三尊阿弥陀如来はわが国最古の仏像とか。
この仏像は、難波の堀江へと打ち捨てられていましたが、後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、642年に現在の地に遷座されました。
644年に伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
現存の本堂は1707年に創建されたものです。
武田神社は信玄公を祭神に大正8年に社殿が完成しました。
詳しくは上の神社名をリンクしてご覧ください。
岩船寺(京都府加茂町岩船、奈良駅からなら交通バスで岩船口下車、徒歩20分)は、729年、聖武天皇が出雲に行幸の時、夢によってこの地に阿弥陀堂の建立を発願し、行基菩薩に命じて建てたのが始まりです。
その後、皇族の関わりが深く、813年に岩船寺となりました。
その後、焼失などもありましたが、江戸初期の寛永期に再興されました。
寺宝として、平安時代に製作された本尊の重文・阿弥陀如来坐像、同じく普賢菩薩騎象像等を有し、また境内には重文・三重塔、十三重石塔、五輪塔、さらに天邪鬼など多くを有しています。
岩船寺は関西花の寺霊場第十五番札所であり、春は桜、ツツジ、みやこわすれ、夏はアジサイ、睡蓮、さるすべり、秋は紅葉、冬は梅、みつまた、椿と四季の花が咲き、併せて楽しむことができます。
浄瑠璃寺(京都府加茂町、近鉄奈良駅から奈良交通バスで浄瑠璃寺前下車)は、真言律宗のお寺です。
この地域は興福寺の別所として多くの石仏が造られていました。
この寺もその一つとして池を挟んで薬師仏を祀る三重塔、中央宝池、九体阿弥陀堂から成り立っています。
寺名は創建時の本尊・薬師仏から名付けられました。
国宝として九体阿弥陀像、四天王像、また重文として子安地蔵菩薩像、不動明王・浄土寺流記事、二基の石灯籠など多くを有し、また庭園も藤原時代に始まってもので、特別名勝及び史跡にされています。
平安時代後期の浄土式庭園で、州浜敷きの中島や玉石敷きの出島などが復元されています。
さらに境内には四季折々の花々が植えられ、訪れた人たちの目を楽しませてくれます。
今日から「奈良シリーズ」に入ります。
奈良・当尾地域は奈良県の東北に位置します。
現在は京都府ですが、いにしえから奈良との関連が深いところです。
平安後期から鎌倉、室町時代に掛けて浄土信仰の霊地として栄えました。
また興福寺の別所として多くの石仏が造られていました。
・うち浄瑠璃寺は14.18ha,岩船寺は5.5haの広さで歴史的な遺産と天然林が一体となり、歴史的風土が形成されました。
近鉄電車奈良駅からバス乗車しバス停、浄瑠璃寺口で降りて、浄瑠璃寺まで徒歩で歩いていくと、「ながおの阿弥陀如来」・・銘文で「徳冶二年(1307)4月29日 願主 僧行楽 立派な屋根石を持ち美しい蓮弁の台座を持った定印の阿弥陀如来坐像」と彫られてありました。
妙蓮寺(京都市上京区寺之内通大宮東入ル、堀川寺之内バス停から徒歩3分)は1294年、日像上人が創建しました。
一時、衰退しましたが、1420年頃、日慶上人によって再興され、その後、1587年に現在地に移転しました。
書院の庭園も有名ですが、寺宝も数多く、伏見天皇御宸筆の重文・法華経、後深草天皇御宸翰(重文)、本阿弥光悦写筆の重文・立正安国論、絵画も長谷川等伯一派による重文・襖絵や丸山応挙、海北友松「椿図」など、見事な絵画等を有しています。
また近年、松尾一切経が発見され、三千余巻が重文となりました。
宝蔵庫は毎年9月第2週の3日間、開放されます。
庭園も良く、百合、妙蓮寺椿、芙蓉、モクレンや10月に咲く御会式桜(おえしきさくら)など、四季折々に美しい花々を咲かせます。
写真の山門は1818年に禁裏より拝領したものとか。
勝林院(有名な三千院から徒歩すぐ)は、1013年、寂源上人が、天台声明を伝承するために建立したもので、天台声明の根本道場です。
ここは1168年、時の天台宗座主、顕真(けんしん)と法然上人が、専修念仏について、歴史に残る宗論を交わした「大原問答」が行われたことで有名です。
また重文の石造・法筐印塔も建てられています。
写真の本堂は江戸時代中期、1777年に再建されたもので、瓦葺の美しい形を持った本堂です。
本尊は阿弥陀如来で、仏像の手から五色の綱が垂れて、これに触れると阿弥陀如来と結縁が得られると言われています。
また境内の梵鐘は、藤原時代の作で、重要文化財に指定され、現在も大晦日には、除夜の鐘を撞いています。
安井金比羅宮(京都市東山区、建仁寺から徒歩3分、東山安井バス停からすぐ)の祭神は1156年の保元の乱で讃岐地に流された崇徳天皇、讃岐の金比羅宮から勧請した大物主神、平安時代の武将で源頼政です。
ご承知のとおり、金比羅様であり交通の神様として多くの人の信仰を集めてきました。
境内には、珍しい金比羅絵馬館もあります。
また平安時代の村上天皇お手植えの「安井の藤」がその季節に美しい花を咲かせます。
東大路に面して石鳥居があり、石畳の参道から写真の本殿へと続いています。
欣浄寺(京都市伏見区西桝屋町1038、京阪電車・墨染駅南5分)は、曹洞宗のお寺で、年平安時代の歌人、小野小町との悲恋で有名な深草少将の屋敷があった所と言われています。
少将が小町(隋心院ー詳しくは歴史を訪ねて・京都)に会いに百夜通った道の他、二人の塚、墨染井と呼ばれる井戸、小町姿見の池が残されて、当時の面影を偲ぶ雰囲気が漂っています。
但し、悲恋の道であったので、この道は通ると願いは叶わないと言われています。その後、寺伝によると1230~1233年に、福井・永平寺を開山した道元禅師がこの深草で教化に努めるために再建したとのこと。
本堂には、伏見の大仏と呼ばれる丈六のルシャナ・ブツをはじめ阿弥陀如来や道元禅師像をお祀りしています。
(本堂に書かれている電話をかけると拝観可)。
北向山不動院(京都市伏見区、地下鉄烏丸線または近鉄電車竹田駅から徒歩10分)は、天台宗のお寺で1130年に鳥羽上皇の勅願で創建。
本尊は平安後期の作、重文・不動明王で京の王城警護のために北向きに安置されたので、北向不動院と名付けられました。
本尊は1月16日のみ開帳されます。
写真の本堂は1712年に東山天皇の旧殿を移築したもので、梵鐘は1694年に造られ二本済深親王の銘があります。
社務所には伊藤博文、山県有朋、大隈重信などの歴代首相や勝海舟らの寄付札が掲げられていて、寺院の重みを感じました。
住職が優しく説明していただき良く理解できました。
三宅八幡宮(京都市左京区上高野三宅町22、比叡電車鞍馬線八幡前駅から徒歩3分)の辺りは小野郷と呼ばれ小野妹子など小野氏が居住していました。
妹子が隋に渡る途中で、筑紫で病を患ったが宇佐八幡に祈願したところ平癒したとか。
帰朝後、宇佐八幡に勧請したのが起こりと伝えられています。
東方には、677年の年号が刻まれている小野毛人の石棺と墓誌(国宝)が発掘されました。
俗に「虫八幡」と言い子どものしゃく・虫除けにご利益があると厚い信仰を集めています。
境内には、祭神のおつかいの鳩を形どった「鳩餅」が売られている。
また境内には遠く比叡山の鵜ヶ谷から導かれた水が今も湧き出しています。
養源院(七条・三十三間堂東隣)は、豊臣秀吉の側室、淀君が父、浅井長政の追善供養のため,1594年に建立しました。
養源院の名は長政の法号から。
すぐに焼失したが、1621年に徳川秀忠夫人の崇源院(淀君の妹)が再建しました。
本堂は左甚五郎によるウグイス張りで、また天井は伏見城の遺構を移築したもので、見ると徳川家康の部下、鳥居元忠らの抗戦、自決の血天井が生々しいです。
その他、俵屋宗達による重文の襖絵「松図」(12面)や杉戸絵「唐獅子、白象、麒麟の図(8面)の素晴らしい作品が納められています。
さらに仏間には阿弥陀如来を中に、左に浅井長政、右に崇源院らの位牌が祀られています。
江戸時代の建築様式を今に伝え、また庭園は枯滝石組みを中心に石橋を配するなど堅実な作風を残しています
大原野神社(京都市西京区大原野、阪急電車京都線東向日駅からバス南春日町行き、約20分)
このあたり一帯は山城地方でも古くから開け、1万年以上も前の遺物が発見されています。
桓武天皇が長岡京に遷都してからも、辺りで鷹狩りを行っていたり、その影響で藤原氏が春日大社の御分霊を移したのが始まりとか。
平安時代に社殿を整え隆盛を極めたが応仁の乱により焼失しました。
現存の建物は江戸時代初期に後水尾天皇により、再建されたもの。
境内には桜・楓・ツツジの刈り込みがあり、また初夏には睡蓮が咲き誇ります。
神事は4月初めの御弓祭、御田刈祭が有名です。
誠心院は、真言宗に属しています。
ここは、平安時代に才色兼備の女流歌人である和泉式部ゆかりのお寺として有名です。
寺伝によると,1025年に時の関白 藤原道長の娘 藤原彰子に仕えていた和泉式部のために法成寺の一庵を与えたのが始まりとか。
本堂の傍らには式部が生前愛したと言う梅の木「軒端の梅」が植えられています。
清閑寺は、歌の中山清閑寺と言われ、真言宗智山派のお寺です。
802年に紹継法師の創建で古典「平家物語」に書かれている古刹です。
小督局が平清盛により尼にさせられた所と言われています。
小督は高倉天皇のちょう愛を受けましたが、高倉天皇の宮、建礼門院が清盛の娘であったので、嵯峨に身を隠したのは有名。
これを元に作られたのが謡曲「小督」です。
しかし帝の気持ちは変わらず、1181年に亡くなり、この寺に埋葬されました。
帝の御陵と小督の墓は並んでいます。
山号の「歌の中山」は清水寺から清閑寺に至る山路を言います。
写真の参道から山門に入るまで天に昇る感じ。
中に入ると苔が美しい。
青々とした空、緑の木々や山々がナントも言えない風景を創りだしています。
風を受けながら佇んでいると胸が痛むほど、厳かな気になります。
安楽寿院は、新義真言宗の智山派の寺で、1137年、覚行法親王を導師に鳥羽離宮を寺に改めたことに始まります。
それを遡ること半世紀、鳥羽離宮は1086年、白河上皇によって造営が始められた。さらに鳥羽上皇にわたり、多くの寺院が建てられ東西1.5キロ、南北1キロの広大な宮となりました。
その近くに鳥羽離宮当時の遺跡や白川天皇陵も残っていて、平安時代にタイムスリップした感じになり、歴史のロマンを駆り立てる場所でした。
光悦寺は日蓮宗のお寺で大虚山と号します。
始めは1615年、徳川家康に鷹峰三山を与えられた本阿彌光悦が一族、工匠と移り住み、一大芸術村を築きました。
光悦は刀剣鑑定、書、陶芸、絵画、蒔絵などに優れ、後世に光悦の美を残したのは有名です。
光悦は、この寺を「山二つ かたみに時雨 光悦寺」と詠んでいます。
光悦の没後、当時の本法寺の日慈上人を開山として寺に改めました。
写真のように侘びのある山門が迎えてくれます。
四脚門をくぐりお車寄せに。
中には江戸時代に書かれて実相院日記が展示されていたり、狩野永敬の「七仙人の図」の襖絵が。仙人たちが群遊する様子を描いたもので、実に伸びやかで素晴らしい雰囲気をかもし出しています。
また隣の間には平安中期の歌人の藤原朝忠の歌集、「桃源遺事」という水戸光圀の伝記、実相院の紅葉・雪・桜など四季折々の美しい風景を写した写真パネルが展示されています。
さらに次の使者の間には、狩野永敬による艶やかに伸びた枝に鳥がさえずり、花が咲く風景を描いた襖絵があり、本堂には、歴代天皇や入室した皇族の導碑が祀られています。
隣の滝の間には、狩野福信が描いた杉戸絵「松に鶴」などが納められていて豪華な雰囲気をかもし出しています。
実相院は、元は天台宗寺門派であったが今は単立寺院に。
本尊は鎌倉時代作と伝えられる不動明王立像です。
1229年、藤原兼基の子、静基僧正が紫野に開創しましたが、その後、今出川に移り、応永年間(1394~1427)に足利義満の子、義運門跡のときに現在の地に移りました。
1441年に宮門跡になって、今なお続いている由緒があります。
本堂(客殿)、御車寄、四脚門は東山天皇の中宮、承秋門院の宮殿を移築したもので王朝風の佇まいを見せ、寺宝も国宝・後陽成天皇の宸翰「仮名文字遣」(1冊)、後水尾天皇の宸翰、狩野元信・探幽の障壁画、百数十点の古文書など多数を有していて、魅力あるお寺です。
智積院は、真言宗智積派の全国300余りを数える総本山です。
高野山に弘法大師が入定したのが835年。それから300年余りの後、1140年に興教大師が和歌山県根来山に根本道場を開山しました。
後、学頭寺として歴史を刻んで来たが、1585年に豊臣秀吉の焼き討ちにあって、当時の学頭、玄宥僧正は難を京都に逃れました。
その後、徳川家康の帰依を受けて、1601年、豊国神社に再興。
さらに当時、東山随一と言われた祥雲禅寺領を拝して現在地に移転しました。
ここは庭園、国宝に指定されている長谷川等伯ら一族による障壁画が名高い。
また南画の祖と言われる王維の重文・龍図をはじめ、仏画・経典などの文化財を有しています。
さらに庭園も桃山時代の作庭と言われ、築山を苑池から見る鑑賞式林泉で京洛名園の一つです。
吉田神社のある吉田山は古くから聖域と崇められていました。
平安京に遷都されて程無く、都の東北、表鬼門に位置する吉田山に、859年に中納言、藤原山陰が奈良・春日神社の四神を勧請して創建したとか。
以来、平安京の鎮守神として信仰されてきました。
毎年の節分祭は室町時代からの伝統行事で、例年、多くの人で賑わいます。
壬生寺は律宗に属し、本尊は地蔵菩薩立像です。
寺伝によれば、991年に三井寺の快賢僧都が創建しました。
古くは名を地蔵院、宝憧三味寺などと呼ばれていましたが、1213年には、現在地に伽藍を建立していたと伝わります。
その後、1300年に円覚上人によって壬生狂言が創始されました。
江戸時代には、新撰組の大砲・剣術・馬術などの訓練場所になっていました。
地下の資料室には、平安時代の仏像や新撰組ゆかりの資料が展示されています。
岩屋寺の創建は平安時代で、山科神社の神宮寺であったとか。
その後、長い年月の間、興亡を繰り返しましたが、江戸時代に赤穂浪士 大石内蔵助の住いでありました。
現在は、曹洞宗永平寺派の末寺で、本尊・不動明王は智証大師の作と伝えられ、忠臣蔵で名高い大石内蔵助(良雄)の念持仏であったと言う。
赤穂城明け渡しの後、ここに3年間住み、事なってからは、全てを岩屋寺に寄進しました。
その後、衰えましたが、嘉永年間(1848~1854)に堅譲尼が再興しました。
12月14日の義士忌にはゆかりの品々を公開して供養が行われます。
伏見稲荷大社は、言い伝えによると、稲荷明神(穀物神)が降臨したのが711年2月の初午の日。そのお使いが土の化身の狐とか。
全国4万とも言われるお稲荷さんの総本社です。
大鳥居から石段を上ると、写真の朱の楼門に。
朱塗りは丹塗りとも言いますが、古来より魔物を撃退させる色でもあります。また五穀豊穣の色でもあります。
そのせいか重層かつ雅かな感じ。これは1589年、豊臣秀吉の寄進と伝わります。
また、ここ稲荷山の神木から、弘法大師(時の空海)は東寺の塔を造ったと伝わっています。
御香宮神社は、はじめは御諸神社と言われていました。
社伝によると、862年に境内に清水が湧き出して香気が漂い、その水を飲むと疫が癒えたことで清和天皇から御香宮の名を賜ったとか。
ご祭神は、安産・子育ての神である神功皇后、仲哀天皇、応神天皇ら9柱を祀っています。
一時期、兵乱や天災のより荒廃しましたが、関白秀吉により守護神として伏見城内に当社を再興し、さらに徳川家康がこの地に戻し、現存の本殿や表門を建立しました。
以後、伏見の産土神として信仰されてきたこともあって、開運・厄除、出生した初参りなどお参りする人が絶えません。
江戸時代に タイムスリップしたような白壁の塀から門をくぐります。
写真の瓦葺きの門は重文で伏見城の大手門と伝えられます。
円通寺は、臨済宗妙心寺派に属するお寺です。
臨済宗(禅宗)のお寺だけに、清涼の気に包まれた、荘厳な雰囲気でした。
1638年、後水尾天皇の幡枝離宮の地を霊元天皇の乳母、圓光院文英尼公が堂宇を建立したことに始まります。
後の1678年に、妙心寺の景川宗隆が勧請開山しました。
庭園は離宮当時を残存し、枯山水庭園として国の名勝に指定されていて、高尚な雰囲気に包まれていますよ。
大原野神社は、桓武天皇が平城京から一時、長岡京に遷都した時、皇后である藤原乙牟漏(おとむろ)が藤原氏の氏神であった春日大社の氏神を勧請したと伝わります。
その後、摂関家として権力を握った藤原家の隆盛と共に栄えました。
境内はカエデ、ツツジの刈り込みが見られ、奈良の猿沢の池を模した鯉沢池には、6月から8月にかけてスイレンが美しい花を咲かせます。
妙満寺は法華宗のお寺で、創建は、室町時代、1389年に日什大正師によります。
当初は室町六条だったが、その後、豊臣秀吉により寺町二条に移り、さらに昭和43年に現在地に移転しました。
左右の池を見ながら朱塗りの小橋を渡り、写真の山門をくぐります。
白砂を敷き詰めた参道の左は大慈院などの塔頭寺院が並んでいます。
金蔵寺(こんぞうじ)は、天台宗のお寺です。
初めは718年に女帝・天正天皇の勅により、隆豊禅師が開創。桓武天皇は平安遷都に際して、新しい都の四方に王城鎮護のために経典を埋めた一つとして、西岩倉山と号しました。
今昔物語にも書かれている古刹で、一時は子院が49院を有するほどに隆盛しましたが、応仁の乱により焼失しました。
その後、徳川綱吉の母、桂昌院により1687~1705の間に再建されました。
最寄のバス停から小塩山の中腹(350m)まで登ってくると、緑一色。鳥がさえずり、風に木々の葉が揺れると、爽やかな雰囲気に包まれます。
ここは大都市近郊には数少ないモミ、下層が豊富な落葉広葉樹林という貴重な自然が現存して、季節にはシャガ、ムクゲ、カエデ、椿が美しく咲き誇ります。
周辺に大原野神社、正法寺、勝持寺などがあり、さらに東海自然歩道なども整備され西山巡りの里として親しまれています。
但し、最寄のバス停(南春日町)から徒歩で約1時間を擁するので留意されること。
その中を朱塗りの仁王門をくぐりました。